JA多気郡のプレミアムな生産者

次世代へ農業を繋ぐ想い

高校生で就農を決意
 明和町八木戸の小竹行哉さん(54)は、地元になくてはならない農業法人である株式会社ヤマヨ組の代表取締役。稲作と運送業との兼業農家の父と、漁業に携わる母の元に生まれました。就職に有利な工業高校へ進学するも3年生時には円高不況による就職氷河期となり、進路に迷う中、母の農業への移行もあり父から「おまえが継ぐなら農業を拡大する」と告げられ就農を決意。両親の勧めもあって三重県農業大学校へ進学して基礎を学び、家業に就きます。
金の卵
 当時は農業に就く同級生などおらず、両親をはじめ周囲の農家さんも年上ばかり。大事に育てようという期待を一身に受けていたそうです。「まさに金の卵。運が良かった」。父の教え方は手取り足取りではなかったものの、困難な場面では必ず助けてくれていたそうで「父も母も、周囲の農家さんにも、いま思えば感謝しかありません」と懐かしそうに語ります。35歳で結婚、同時に父から経営委譲を受け、実績・経験ともに充実してきた41歳の時に株式会社ヤマヨ組として法人化へ。さらなる担い手の拡大を図るため、弟のほか従業員2名を採用します。「これまで同世代の就農者は殆どいなかった。これからは若い人たちも含めて仲間の輪を拡げていきたい」と法人化を機に決意を固めたそうです。
夫婦岩のしめ縄
 平成21年、伊勢神宮カケチカラ会員でもある父から「夫婦岩のしめ縄に使用するわら栽培の依頼を受けた。作ってくれないか」。これまで手掛けていた飛騨の農家さんが栽培できなくなったことで二見興玉神社の宮司さんが困っていることを聞き、これまでも地域振興に力を入れてきた行哉さんは「地域貢献の象徴的な仕事。観光支援でもあるし、受けるしかない」。荒波に耐えられるわらを栽培するためには、長くて強い品種を定植する必要があることや、稲の刈り取りをバインダーで行うため、手間も費用も掛かり「採算は不問。奉納の精神」と力強く語ります。明和町で作られていることに何とも誇らしくなりますね。
農業の将来を見据えて
 ヤマヨ組の社員は7名。地元の農業が継続していくことを意識して、30歳前後、40歳代、50歳代と意図的に年齢のバランスを取っているそうです。また、三重県指導農業士や明和町認定農家、明和町農業委員などの役務や、スカイブルー生産組合合同会社の代表社員、アグリエアロサービス代表を務めるなど、いくつもの顔を持つ行哉さん。「若い頃に育ててもらった分、今度は自分が若い仲間の育成に努めたい」。担い手として、次世代へ地元の農業を繋ぐ想いに溢れています。




Photo:明和町 小竹行哉さん 2024.3

三重ブランドのレンコンを  新規就農者の挑戦

 令和5年、新規就農者の坂津舞樹さんは明和町でレンコンの生産を始めました。元々は山口県のご出身で、お父様が4代目となるレンコン農家生まれ。幼少期から“家業のお手伝い”をしてきたそうで「祖父母も含め、家族総出で作業していました」と懐かしそうに語ります。三重県には6年前に移住されたとのこと。「当初は山口県から京都府福知山市に移住したのですが、冬が寒くて。故郷の山口県のような温暖なところはないのかと探していたところ、農業体験宿泊施設を通じて三重県にたどりつきました」と語ります。
 三重県の気候風土はもちろん、温かくて人柄の良い県民気質がとても気に入り「ずっとここで暮らしたいな」と思い始めます。就農前は知人のサービス業を手伝うくらいでしたが、2人目のお子様が小学校に入学するタイミングで「就農するなら今」と感じたそうです。先祖代々のレンコン農家生まれ。幼少期のお手伝い体験。山口県で生産者として従事されている2人のお姉様もレンコン農家。「父も一緒だし、レンコンを三重県で生産してみたいな」と思い始めました。農地を借りるなど様々なノウハウを相談するため、知人の紹介を受けて地元の農業法人を尋ねます。
 「本気度を試す」。農業法人の社長からこう告げられたそうです。「半年間うちで働いてみてはどうか。農作業はきついぞ。少しでも弱音を吐いたら協力はしない」。坂津さんは、ここが正念場と農作業に没頭し、社長をはじめ周囲の信頼を得ていきます。認定新規就農者となるため、役場職員やJA多気郡担当者との関わりなど、農業に関する人脈も拡がりました。明和町で7反の農地を借り、令和5年3月に定植。新規就農者としての第一歩を踏み出します。
 土壌に竹チップや牛糞を撒くなど生産性を高める工夫は、アドバイスを受けたり自分で調べたり試行錯誤してきたそうです。カモに芽を食べられないよう気を遣ったとも。時折手伝ってくれるお父様もいろいろとアドバイスをしてくれて「昔ながらの職人気質な父ですが、とても感謝しています」。既に収穫も始まっており、大きく育ってくれて本当にうれしいと笑顔で語ります。三重県でレンコンを出荷する農家さんは珍しく、関係各所から注目されているとのこと。マスコミ取材も受けるなど出だしは順調のようです。地元スーパーが取材時に「三重県産レンコン」の表記を一時的に「坂津蓮根」としてくれたことに感激。「涙が出るほど嬉しかった。夢は仲間の生産者を増やして、レンコンが県認定の農畜産物“三重ブランド”の仲間入りをすること」。明るく元気な坂津さんの挑戦はまだ始まったばかりです。



Photo:明和町 坂津舞樹さん 2023.12

農業は楽しい

 「マイペースで仕事のできる農業は実に楽しい」と語る多気町の佐藤剛さん(41)。伊勢いもや白ねぎを計3反の畑で栽培している新規就農者です。元々は三重県北部の川越町ご出身で、大学・大学院と機械工学を専攻、就職は業界最大手のひとつである機械メーカーへ。約10年間、機械設計の仕事に従事されてきました。仕事には特に不満はなかったものの、組織で働く窮屈さを徐々に感じ始めて転職を意識するようになっていったそうです。
 「小学生の頃、ひまわりの種を蒔いて、花が咲くまで育てた体験が楽しかった」と語る佐藤さん。この記憶が契機となり、転職先として農業を考え始めました。大阪など大都市で開催される“農業人フェア”などのイベントに参加、三重県からは多気町がブースを出展しており、いろいろと話しを聞いたほか、他にも様々な農業従事者募集イベントに参加するなどして、新規就農への意思を固めていきます。多気町の担当職員から、未経験のまま就農するのではなく、基礎を学んでからの方が良いと三重県農業大学校で学ぶことを勧められ一年間通学。三重県の中でも、地元伝統野菜の継承に力を入れている多気町への移住を決意、同大学校を卒業後、もう一年間JA多気郡の子会社である(株)多気郡アグリサポートでも実務を学び、圃場探しも同時に行なうなど、就農準備を進めていったそうです。
 「伊勢いもは、殆ど出荷できなかった」と悔しそうに語る佐藤さん。令和3年の就農初年度、同時に栽培を始めた白ねぎはなんとか出荷にこぎつけたものの、伊勢いもの栽培にかかる労力の大変さ、手作業が大部分を占める現実を突き付けられることに。また、獣害にも悩まされ、電気柵の設置など対策も行なってきました。残念ながら伊勢いもは2年目も不作で、3年目となる今年、ようやく出荷できる見通しが出てきたそうです。
「白ねぎを植えている間、伊勢いもの除草時期と重なってしまい、上手く両立ができなかったことが反省点ですね」。
 新型コロナウイルス感染症の影響で、中止となっていたJA多気郡の伊勢いも部会や白ねぎ部会総会へも今年から参加するなど、ネットワークづくりにも動き出した佐藤さん。当面の目標は「毎年、安定的に収穫できるようにすること」。これまでも地元の産官学が協調し、伝統野菜として保存継承していこうと位置付けられている伊勢いも。その志を引き継ぐ佐藤さんの挑戦はまだ始まったばかりです。



Photo:多気町 佐藤 剛さん 2023.10

生産管理の経験を農業に活かしたい

 脱サラを経て、大台町でいちごの栽培に取り組まれている西岡利幸さん(54)。これまでの経緯や、やりがいなどを伺いました。

 大台町ご出身の西岡さん。ご実家が稲作やいちごなどを生産されていたとのこと。「幼少期から手伝っていました。父のいちごは土耕栽培でした」と話されます。工業高校を卒業後、工場勤務となり、37歳の時からは香港、中国へ海外赴任されるなど、ずっと現場に関わってこられたそうです。2018年に帰国後、異動したデスクワークの仕事に無力感を覚えたこと、かねてより周囲へ「自分は50歳定年」と漏らしていたことなどから今後の人生を考え、父や幼少期の記憶から就農を決意。「妻も賛成してくれて。三重県農業大学校への進学を勧められ、これが大正解でした」と笑顔で語られます。
 2019年3月に退職。「就農するため進学すること、ずっと携わってきた生産管理の経験を農業に活かしたい」と退職理由を訴えました。同年4月、50歳の時に農大へ入学。いちご栽培を基礎から学び、生産者やJA担当者など農業系の人脈も拡げていき、2020年からの就農を目指しました。
 選んだ品種は、三重県のオリジナルブランド〝かおり野〞。「農大でこの品種の勉強をしたことや、病気に強いとの理由から選択しました」とのこと。自ら建てたハウスには換気や室温対策として換気扇などを設置。就農1年目の収穫期は「他の生産者のように感覚でパッケージに詰めることが出来ず、〝しゃべるはかり〞を購入し1粒毎に計量、粒の大きさを揃えて詰めることで効率化を図りました」。2年目からはカビの発生を予防するためさらに換気に気を配りました。カビの発生は激減しましたが、1年目に出なかったダニが2年目に発生したため、対策として天敵を入れました。「消毒を勧められたが、実を付けてからは避けたい」とのこだわりも。3年目には売り方の工夫を図り、商業施設の産直コーナーで観光客が手に取りやすいパッケージを用いるなど、試行錯誤を繰り返してきた西岡さん。
 「やりがいは人との出会い。生産者さんやケーキ屋さんなど、工場にいたら出会うことのない人脈を拡げられたこと」。また、収量等のデータを日々入力管理するなど、工場での生産管理の経験を見事に活かしています。「ハウス環境管理をビジネス化できたらいいな」とも。「地元は耕作放棄地が多いな」。ハウス用の土地を捜していた時に感じたこと。地域を守るために田の引き受けを行なっており、地域貢献にも尽力されている西岡さんの就農への挑戦は、まだ4年目。始まったばかりです。JAも全力でサポートして参ります。



Photo:大台町 西岡 利幸さん 2023.05

先祖代々の農地を守っていく価値

 令和4年4月、20歳の若者が大台町で家業の茶畑を継ぐために就農されました。今号では、お茶づくりで貢献を続ける西村製茶の西村さん親子にお話しをうかがいました。

大台町でお茶の栽培を営む西村光弘さん(56)と長男の一馬さん(20)。父の光弘さんはお茶の生産農家として3代目になります。「ご先祖様から引き継いだ大切な農地を守っていくのが私の使命です」と語る光弘さん。かつては牛やヤギの飼育のほか、野菜やお米、ミカンなど多岐に渡って生産をしていましたが、今は親族から譲り受けた製茶業が中心となっています。
光弘さんは東京の大学で農業気象学を専攻、また「貴腐(キフ)ワイン」という最高級品の製造をぶどう栽培実習で行うなどの研究を経て、卒業後すぐに家業に入ります。当初は大学で学んだことが実作業に活かされず悩んだことも。年数を重ね、周囲から評価を受けていくうちに「ようやく自信が持てるようになった」と語ります。また、同業仲間と共にJGAPの取得や、日本茶インストラクターの資格も取得するなど生産者としての高い意識を持ち続けています。
4代目となる一馬さんは高校進学時に家業を継ぐ意思を固め、相可高校生産経済科へ進学、卒業後に三重県農業大学校でお茶を専攻し、2年間学びます。当初は4年制大学も視野に入れていたそうですが、充実した実務の同校を選んだとのこと。詳しく丁寧に書かれた教科書を見て「良い進学先だった」と父の光弘さんは振り返ります。一番茶の収穫が4月末から5月末。続けて2番茶の収穫も7月上旬まで続くなど、4月から就農した一馬さんは、すぐに多忙な作業に没頭していきます。自然に対する探究心も旺盛で、畑の雑草を撮影しスマートフォンで調べるなど今時の若者の一面も。「今は父や母の指示で動くことが多いですが、肥料設計や製造方法など自分で判断できる自立した生産者になることが当面の目標です」。
農業大学校時代に共に学んだ自身と同じ境遇の製茶業を継いでいく仲間と今でも連絡を取り合っている一馬さん。先祖代々続いてきた農地を絶やしてはいけないと語る傍ら「僕ら世代の若者が一人でも多く就農者となり、農業を発展させるためにも、まずは自分が頑張らないと」と就農僅か数ヶ月ながらも力強く語ります。将来性のあるこの逞しい若者をJAは全力でサポートしていきます。


Photo:大台町 西村 光弘さん 一馬さん 2022.08

たけのこ栽培を続けていくこと  木屋 亮志さん

 春の風物詩ともいえるたけのこ。多気町は三重県でも有数の産地ですが、この地で三代目となる生産者の木屋さんに、たけのこ栽培に懸ける想いを伺いました。

 木屋さん(74)は祖父の代から続くたけのこの生産者。55歳の頃から父の作業を手伝う機会が増え、以前勤めていた電子部品会社を60歳で定年退職後に専業従事者となり、現在はご夫婦で栽培をされています。お米も作られているようで「祖父、父と続く農家で、竹林のほか水田も代々続いており、長男として継ぐものと思っていました」。
 木屋さんの竹林で栽培されるたけのこの特徴は、アクが少なくてうま味のあること。品質の良いたけのこ作りには、6月下旬頃に一坪あたり3本程度になるよう親竹を選定し、7月上旬には親竹の更新伐採作業、7月下旬にはサバエ刈りと呼ばれる細い竹の刈り取り、ポイントとなるのが11月上旬に行う冬肥えで、丸みのある美味しいたけのこに育つとのこと。この作業を終えると12月下旬から早掘りと呼ばれる収穫時期を迎えるそうです。「収穫は4月まで続きますが、早掘りたけのこは稀少価値があり市場人気も高くやりがいがあります」と微笑む木屋さん。雑草を増やさないことや、枯れた竹を放置しておかないなど細かな配慮を行い、手間を惜しまず、年間を通じて見守っていくことが大切と語ります。
 昔はこのあたり一帯でたくさんのたけのこが栽培されていたそうで、茹でたたけのこを缶詰にするなど、製缶設備もみな持っていたようです。祖父の代となる大正時代くらいがもっとも盛んだったとも。令和になった今でも作業は機械化が出来ず、斜面での作業、特に収穫作業が一番大変で、今では殆ど誰も継がなくなってきており「後継者不足が一番の悩み」と木屋さんの表情はどこか寂しげです。収穫時期を狙ってやってくるいのししにも頭を悩ませているようで、「いのししも食べごろを良く知っている」と苦笑い。
「たけのこは全体が黄色で丸くふっくらしているのを選ぶと良いですよ。そして米ぬかで茹でることでとても味がよくなります」。好きな食べ方は「炊き込みごはんかな」。いつまでも美味しいたけのこを生産し続けていって欲しいですね。


Photo:多気町 木屋 亮志さん 2022.03

伊勢いもに懸ける想い  令和2年度品評会金賞受賞

 粘りとコクが特徴で栄養価も高い多気町の特産品伊勢いも。贈答品として人気があるほか、料理店や高級和菓子の原料としても出荷されるなど地元の誇る逸品です。今回は令和2年度の伊勢いも品評会で金賞を受賞された多気町在住の森下敏さんにお話しを伺いました。

 森下さん(86)は3代目となる伊勢いも生産者。企業に勤めながらの兼業農家を続けられてきましたが、ご両親が高齢になってきた50歳代の頃から自身が主体となって取り組んでいき、定年退職を機にその労力を伊勢いもへ注ぎ込んでいきます。「祖父が初代で両親も栽培していました。昔はこの地区の世帯はみんな伊勢いもを作っていましたよ」と語ります。
多気町津田地区は櫛田川水系に恵まれた肥沃な圃場で、伊勢いも栽培には最適な土地。他の場所で栽培すると別の芋に変わってしまうと言われるほどの繊細さは、特産品と呼ばれるにふさわしい農産物です。地元自治体である多気町も、伝統野菜を守ろうと後継者の育成支援やバックアップ体制にもかなり力を入れているほか、相可高校生産経済科でも伊勢いも栽培の実習を積極的に取り入れているなど官学連携も盛んです。
「糸を置いてつる分けをすることを初めて取り入れたのですよ」と森下さん。この理にかなった方法はやがて周囲の農家全てが取り入れていくことになったそうです。「伊勢いもは他の農産物に比べるととても手間がかかる。機械化できる作業が少なくて、暑い夏場の作業は本当に大変。収穫までの期間が永いことも苦労が多い」と語ります。「この圃場で採れる伊勢いもは昔から白くて質が良く、特に伊勢いも栽培に向いているように感じる。だから苦労はするけど力を注ぎたくなる」とも。しみじみと語る口調に重みを感じます。
「一番嬉しいのは、収穫した時に理想の伊勢いもを掘り出した瞬間ですね。全ての苦労が報われる瞬間です」と森下さん。息子さんが後を継ぐため、一緒に作業をしていることも楽しみなようで「作業は手間もかかるし大変だぞといつも話している」と語りながらも優しい笑顔に。これまでも品評会で度々表彰を受けてきた森下さん。いつまでも理想の伊勢いもを作り続けて欲しいですね。


Photo:多気町 森下 敏さん 2021.10

農家を脈々と続ける ~苦楽を分かち合う中井さん親子~

 たくさんの方が待ちわびる新米の季節。今回は、おいしいお米を中心に栽培されている多気町の中井さん親子に生産者としてのやりがいなどを伺いました。

 法夫さん(64)は、20歳の頃から農業に従事、お父さまがみかんを栽培されていたこともあり「自分も当然継ぐもの」と進まれたようです。当初よりみかん以外の稲作や麦栽培などにも注力していきます。一方、正法さん(30)も高校卒業後に三重県農業大学校へ。在学中、オーストラリアのファームステイに参加し、手厚い歓迎に衝撃を受けます。「日本人の僕を優しく受け入れてもらい、生産者とはどうあるべきかを刻み込んだ体験でした」。
 中井さん親子の圃場はコシヒカリ栽培のほか、養鶏会社へ卸す飼料米などが生産されています。これには多気町の支援もあり、他の生産者と共に卸業務を拡大、平成18年頃に現在の栽培スタイルになっていきます。「加工用米の地元飼料会社は自分たちで開拓し、道筋をつけてから役場の支援を仰ぎましたね」と語る法夫さん。収益を確保するためのご苦労が垣間見えます。
 令和3年、多気町に新しくオープンした話題の大型リゾートスポット「VISON」。ここでも中井さん親子の手掛ける酒米が期待されています。3年ほど前から酒米を卸しているみりん製造企業がVISON内に進出するほか、同エリアで販売中の日本酒に使用される酒造好適米「神の穂」の栽培にも力を入れています。また、正法さんは3年ほど前からオリジナルみかんジュースの製造に着手、昨年は600本を完売します。「熊野市の業者に製造委託し、道の駅等で販売しました。ふるさと納税の返礼品にも採用され、遠く北海道や沖縄のお客様へ商品が届くことに感激しています」と笑顔の正法さん。また、「農業もジュースも、ご先祖様が植えてくれたみかんの木もそうですが、多くの人たちや自然の恵みに支えられていることに感謝です」。
 「圃場を常に清潔に保つこと。この当たり前のことを継続していくことが大変」と語る法夫さん。苦労を厭わない父の背中を尊敬の念で追いかけてきた正法さんは、まだまだ自分の力だけではこの圃場を維持していくことは難しいと感じているようですが「父が万一の場合は自分が何とかします」との決意も。成長した息子に優しく微笑む法夫さん。いま、農業を取り巻く環境は後継者不足が深刻化しており、父親譲りのチャレンジ精神を脈々と受け継ぐ正法さんのような若き生産者が数多く登場することに期待が寄せられています。JAではこれからも次世代生産者を応援して参ります。


Photo:多気町 中井法夫さん 正法さん 2021.09

~イチゴ栽培に懸ける~

 ケーキなどの洋菓子や和菓子のほか、様々なものに重用されるイチゴ。お子さまからご年配の方まで幅広い人気を誇っていますよね。今号ではイチゴ栽培に想いを懸ける若き生産者の吉田さんにお話しを伺いました。

 明和町出身の吉田さん(34)は、大学進学、就職と名古屋で居住されていましたが、転職を機に愛着のある地元へUターンします。過日、祖父の他界を機に、田んぼの存続を巡って「残して欲しい」と父に懇願、ならばと稲作以外の農作物も栽培して農家として起業することを思い立ちます。役場へ相談に伺ったところ三重県農業大学校への入校を勧められ、イチゴを専攻として学ぶことを決めます。
 1年間イチゴの基礎を学び、卒後2年目には明和町のイチゴ生産者である山口剛司さんの元へ師事することに。「何もわからない自分に対して優しく、時には厳しく教えていただきました。今でも師と仰ぎます」。自らの起業を想定し、山口さんの元で1年間学びながら、土地などの準備も並行して進めていきます。農家として生きると決めてから3年目、いよいよ独立です。
 「心が折れるとはまさにこのこと。起業1年目から自然の厳しさの洗礼を受けました」と語る吉田さん。4棟あるビニールハウスのうち、収穫目前で大雨の影響を受け土耕栽培の2棟が水没してしまい、出荷できない事態に。2年目には全てを水耕栽培に切り替えたものの、今度は害虫被害に悩まされるなど苦労が度重なります。4年目となった今でも「細かな問題は絶えず発生しています。でも前に進んでいくしかありませんね」。
 イチゴの収穫期は12月から4月頃まで。父の支援を受けているとはいえ、出荷のピーク時にはパック詰め作業や収穫株の手入れと多忙を極めます。頼れるのは自分だけと自ら鼓舞しながらの日々。5月から9月は苗づくり期で10月にはビニール張り作業と年間を通してほぼ休みなし。「11月にちょっとだけホッとできますよ」と笑顔の吉田さん。今後の目標は収穫量の増大と生産効率を上げること。また、同世代のイチゴ農家との交流と意見交換をしてみたいそうです。「美味しかったと言ってもらえるのがなにより嬉しくて。とても励みになります」。起業して苦労を乗り越えてきた生産者としての自負が表情に溢れているようです。JAとしても次代を担う若き生産者を全力で応援していきます。


Photo:明和町 吉田裕俊さん 2021.03

三重の家族農業 ~農業に生涯を捧ぐ~

 国連は2019年~28年を「家族農業の10年」に決定、また、2020年3月に閣議決定された食料・農業・農村基本計画においても家族経営の重要性が示されています。今号では「三重の家族農業」をテーマに、明和町で就農されている杉木さんご夫妻をご紹介いたします

 平成18年、杉木麻人さん(38)は、当時JA職員だった学生時代の先輩に就農を勧められ、小竹行哉氏(前JA多気郡理事)が代表を務める農業法人を紹介されます。その際“自分は農業に生涯を捧ぐべき”と、直感的に感じたそうです。入社後は様々な農作業を徹底的に叩き込まれていきます。平成26年に独立就農を果たすのですが、入社時に「将来は独立したい」との意向を伝えていたとのこと。8年が経過し、ついに代表から独立を促されます。「将来のことも配慮していただき、今も感謝しかありません」と語ります。
 平成26年にはご結婚も。就農経験の無い妻の摩育さん(28)と共に歩み始め、繁忙期には父母にも手伝ってもらうなど家族農業のスタイルを確立していきます。「家族経営の良さは、助け合いがしやすいところですね」。また、新たな農作物の栽培をJAの浦田営農指導員に相談したところ、摩育さんが主体であればと、ナバナ栽培を勧められました。「畑仕事は好きですよ。除草作業は大変ですが、きれいになるのが嬉しい」と笑顔の摩育さん。麻人さんの祖母も永年ナバナを栽培されていたそうで「高齢で離農していますが、ナバナの事なら関わりたいはず。今も元気です」。
 「他の農業従事者はどんな取り組みをしているのか」。麻人さんは、明和町主催の次世代農業者意見交換会などに参加され、そこで得た知識なども取り入れていきます。また、ベテラン農業従事者が、ご高齢ながらもっと良い栽培方法はないのかと常に模索していることに驚かされます。
 麻人さんは「もっと付加価値の高い栽培方法に取り組みたいですね」と今後の展開を掲げます。販路の拡大や6次産業化検討中で、夫婦間で役割分担しながら、将来を見据えます。この取材が就農を決めた頃の記憶を呼び戻したようで「23歳の自分に、選択した道は間違ってなかったよと褒めてやりたい」とこれまでの軌跡を辿りながら語る麻人さん。素敵ですね。益々のご活躍を祈念しています。

Photo:明和町 杉木麻人さん 摩育さん 2021.01

 次代を担う若き生産者  ~美味しいお茶を作りたい~

 伊勢茶を始め、様々な種類のお茶を生産している三重県。全国でも3位の生産量を誇るお茶づくりの盛んな地域です。今回は、大台町でお茶づくりを続けている松田製茶の若き生産者である松田晃尚さんに、お茶づくりへの想いを語っていただきました。

 松田さんは平成10年生まれの22歳。家業を継ぐ意思を固めたのが17歳の頃だったそうです。「高校生活も後半に差し掛かり、自分はやはり大好きなお茶を作っていきたいと思いました」と当時を振り返ります。その後、三重県農業大学校へ進学し、お茶を専攻。卒業後、父母と従業員の方と一緒にお茶づくりに関わっていきます。
「お茶には4月から5月に収穫される新茶・一番茶、6月から7月に収穫されるニ番茶、10月に収穫される秋番茶があります。2月に年一回のみ肥料となる原材料を独自にブレンドしたものを使用するなど、土づくりには気を遣います」とのこだわりようです。2番茶や秋番茶の収穫前に施す肥料にも工夫を凝らすなど品質管理は徹底されているようで、これは三重県が認定する「みえの安心食材」の基準を保つためでもあります。また、松田製茶として「JGAP」の認定を受けるなどお茶づくりに懸ける想いは並々ならぬものがあります。「今は父の背中を追うばかり。技術的な面はもちろんですが、代々続く松田製茶の理念も含めて継承していきたい」と神妙な面持ちで語ります。
 松田製茶のお茶は農産物直売所スマイル明和・スマイル多気などで販売されています。また、大型ショッピングセンターの催事では、お母様が店頭販売されるとのこと。「コロナ禍で試飲ができないのが残念ですが、好評をいただいています。お茶が日本人の暮らしに根付いていることを実感しますね」。
 家業を継ぎ「少しは親孝行できたかな」と照れ臭そうに笑う松田さん。両親の期待は事務所兼工場の新設に繋がっており、事業を継承することへの責任感も感じているようです。「まだまだ父も現役ですので、今のうちに全てのことを吸収していきたい」と力強く語ります。日本の伝統文化とも言える「お茶」を将来に渡って永く生産し続けていって欲しいですね。JAとしても精一杯応援させていただきます。


Photo:大台町 松田晃尚さん  2020.12

伊勢いもづくりに生涯を懸ける ~伊勢いも品評会で金賞受賞~

 多気町の特産品である人気の伊勢いも。30年に渡って開催されている伊勢いも品評会において幾度となく受賞され、令和元年度の品評会でも金賞に称えられた角谷孝夫さんに、伊勢いもづくりへの想いを語っていただきました。

 昭和7年生まれの角谷さんは今年で88歳。小学校高学年の頃から農作業を手伝ってきたそうですから、キャリアはなんと70年以上。当時の先生が、家業を手伝うその姿に感嘆し、表彰されることになり「朝礼の時に全校生徒の前で檀上に登ったかな」。そして学校を卒業後、農業に従事していきます。
 伊勢いもは他の農作物よりも収穫までの期間が長く、苦労も多いそうです。最も欠かせないのが「芽かき」と呼ばれる作業とのこと。これは種芋1つに対して大きく育つであろう太くて良いツル1本に仕立て、その他の細いツルを根本から取り除くことで栄養分を集中させる作業です。また、角谷さんいわく美味しい伊勢いもづくりのポイントとしてアクの少ないものを育てることが重要なのだそうですが、アクが少ないと逆に腐りやすいという欠点があるため「本当に神経を使います」と角谷さんは語ります。
 「伊勢いもは人間の子どもと同じ。美味しいものをたくさん食べさせてあげることで大きく育つ。そして美味しいと思える環境を整えてあげるのが私の仕事」。毎日、畑へ出向き、日々の変化に神経を尖らせています。まるでわが子のような感覚で伊勢いもを見つめているようです。
 「伊勢いも栽培は生きがい。主人にとって人生そのものなのですよ」と語るのは、奥様のきぬへさん。夫婦二人三脚で支え合ってきたからこそ、ご高齢となった今でも現役で活躍し続ける原動力なのかもしれません。どんな食べ方が好きですか?の問いには「三杯酢で和えるのが好きかな」。いつまでも末永く、上質な伊勢いもを作り続けて欲しいですね。


Photo:多気町 角谷 孝夫さん 2020.10

「トマト美味しかったよ」が一番の励み

 明和町でトマトを作り続けている岡村智長さん(73)は、「O.Kとまと」というオリジナルブランドを確立、初めて口にした購入者を一瞬で虜にするなど根強いリピーターも多く人気の生産者です。

【趣味を本業に】
 元々は土木工事業界で営業をされていた岡村さん。30年間勤めていた会社を退職後、趣味で永年続けていた家庭菜園を仕事にしようと、農業生産者の道へ進んでいくことを決めます。平成11年、岡村さんが52歳の時でした。知人にJA多気郡の西井正組合長(当時:営農課長)を紹介してもらい、ハウスなどのほか多岐にわたって指導を受けます。さらに就農したからには学問としての知識も不可欠と三重県農業大学校へ入学、「1年間しっかり勉強しました」。

【試行錯誤】
 「ハウスでの最も適したトマト栽培法はなんだろう」。研究熱心な岡村さんは“もみ殻”を使用した栽培に着手します。就農3年目にして隔離栽培に取り組み、もみ殻を培地にしたシステムを考案、現在の栽培ベースを確立していきます。また、糖度にもこだわりたいと今度は水分量調整の試行錯誤へ。「糖度の管理は概ねわかってきましたが、いまだにとても神経を使うので努力のし甲斐があります」。
【ブランド化による差別戦略】
 「自分が作ったトマトに顔がない」当初から出荷時に感じていた疑問。ところが、平成13年に新設された農産物直売所への出荷が「この疑問を解決してくれる。購入者に覚えてもらえるよう自分の栽培したトマトをブランド化しよう」。ロゴやシール、メッセージカードを作成するなど目を惹き付ける工夫に取り組みます。近年ではオリジナルブランドも多く目にするようになりましたが、20年前から始めていた岡村さんは先駆者的な存在です。

【さらなる努力】
 「指名買いしてもらえるようもっと努力していきますのでご期待ください」。O.Kトマトはスマイルで販売しています。人気のトマトなのでお早めにご来店の上、お求めください。

*O.Kとまとの美味しい食べ方:冷蔵庫に入れずに常温保存。食べる2~3時間前に冷してください。


Photo:明和町 O.K農場のO.Kとまと 岡村 智長さん 2020.06

新規就農にかける想い

 超高齢化社会へと突入した日本。多気郡管内を取り巻く農業環境も例外ではなく、高齢化や後継者不足は深刻な状況となっており、当JAではこれらの問題に対処すべく新規就農者への遊休ハウスの利用促進や農業資金の支援を行っています。今回は、次世代の農業を支える意欲ある人材が増えることを願い、新規就農者である大久保豪紀さん(43)をご紹介いたします。
【いちご生産者として】
 平成31年4月、多気町在中の大久保さんはいちご生産者として就農されました。「元々は祖父母がお米や野菜などを栽培・出荷していましたので、幼少の頃より農業は身近な存在でした」。その後、お父様が引き継いで生産していましたが、転職するにあたり、将来を見据えた上で「これからは自分の代かな」と農地を引き継ぎ、定年などにとらわれることなく生産者としての道を進んでいくことを決め、いちご栽培へと没頭していきます。
【令和元年は章姫元年】
前職などの経験から、ハウスの構築にも「自らできることは何でもしました」と語る大久保さん。栽培方法など営農指導員によるアドバイスを受け入れながら章姫の栽培に着手し、就農1年目から“安定的な栽培”と“収量の確保”にこだわり、12月には初収穫を迎えたとのこと。「とにかくこなしてきた1年だった。あっという間だった」。
【もぎたてが一番】
「いずれは“大久保さんの栽培するいちご”として認知されるようになれば良いかな」と語る大久保さん。お気に入りの食べ方は?の問いには「朝にもぎたてを食べるのが一番」。生産者ならではの食べ方で、至福のひとときを感じます。
 JAでは、今後も大久保さんのような新規就農者の支援を様々な側面から実施し、次世代の担い手である若者の就農しやすい環境整備を目指します。

Photo:大久保 豪紀さん 2020.05

二人で追い続ける理想の伊勢いも 平成30年度品評会金賞受賞

 多気町の特産品伊勢いも。粘りとこくが特徴で栄養価も高く、贈答品としても重宝されています。名物料理店も多く、高級和菓子の原料としても出荷されるなど多気町の誇る逸品です。今回は理想の伊勢いもを追い続ける多気町在住の逵さんご夫妻にお話しを伺いました。

 先代からお米やみかんを栽培していた逵さん。昭和60年頃から伊勢いも栽培にチャレンジすることになったそうです。「相可高校生産経済科卒の同級生が栽培をしていましたので、色々と教えてもらいました」と語る昭夫さん。民間企業を定年退職してからは、専業農家として取り組むことになります。
 伊勢いもの栽培は手作業が多く、1年を通して様々な労力を必要とするそうです。なかでも優良品のために5月から行う芽かき作業は特に力を入れているとのこと。永きに渡り携わってみえるのですが、初収穫の瞬間は今年の出来はどうなのか、毎年わくわくするそうです。
 東京日本橋にある三重県特産品のアンテナショップ「三重テラス」。薫子さんは平成29年から伊勢いもの美味しさを知ってもらおうと仲間の女性たちと一緒に試食イベントに出向き、東京の方々に磯辺揚げなどを振る舞ったとのこと。とても喜んで頂くその姿に、来年への栽培意欲も湧いてくるそうです。
 昨年から櫛田川の肥沃な圃場を持つ多気町津田地区で伊勢いもの栽培を始めた逵さんご夫婦。「津田地区は中心地。伝統野菜を守るために農家が切磋琢磨して技術を磨いています。品質向上にも繋がりますし、やりがいを感じます」と語る昭夫さん。好きな食べ方を伺うと「すりおろしてご飯にかけるのが一番」とお二人ともにっこり。美味しそうですね。皆さんもスマイルへお求めに行きませんか。

Photo:逵 昭夫さん 薫子さんご夫妻 2019.10

美味しい農産物を作る

 明和町山大淀で農業に携わる加藤 元さん。永年に渡り水稲のほか御薗大根など様々な農産物を生産されてきました。昭和40年代頃から、メロンや小玉スイカなども手掛けるようになりましたが、昭和45年に日本一と評される愛知県渥美の大玉スイカ生産者に関する記事を目にします。「小玉スイカにも通じるものがある。話を聞きにいかなければ」と、仲間と一緒に駆け付けたそうです。思い立ったら吉日。探究心からくる行動力は素晴らしいですね。
 肥料や水加減の調整など「糖度を増す栽培方法など親切にいろいろなことを教えてもらいました」と懐かしそうに語る加藤さん。日々の細かな作業を苦慮しながら続け、理想の美味しさに近づいていったそうです。「味はもちろんのこと、きれいな形にもこだわっていますよ」とも。加藤さんの小玉スイカ、食べてみたいですね。
 「昭和50年頃は景気も良くて楽しかった」。永年の生産者生活で一番良かった想い出を尋ねた際の加藤さんのお答えです。当時の主な出荷先は松阪市の中央市場などで、メロンやスイカなどをたくさん購入していただいたとのこと。「とにかく良く売れました」。逆に苦労したことを尋ねると、台風などの自然災害で幾度となく被害を受けたことだとも。そんなご苦労がありながら今までずっと続けていただいたおかげで、私たち消費者が手軽に食べることができているのですね。
 父親の跡を受け継ぎ、半世紀以上も農業従事者として生きてきた加藤さん。まさにプレミアムな生産者です。

Photo:加藤 元さん 2019.06

スマイルへの出荷、有機栽培へのこだわり

 多気町在住の奥山 明さん(72)は、祖父の代から受け継ぎ3代目となる生産者。幼少の頃からのお手伝いに始まりJA職員時代の兼業も含め、ずっと農業に関わってきました。2010年に定年退職し、専業農家として新たなスタート。今まで以上に農業の魅力に惹かれていきます。  
農産物直売所スマイルへは多くの生産者の方々が出荷をされていますが、奥山さんもそのひとり。年間計画を立て、毎日お届けできるように季節の野菜を生産されています。スマイルでは直接お客様とお話しされる機会もあり、自身のこだわりでもある低農薬野菜をPRしつつも「自分を知っていただき、名前で購入していただいている方も多いですから中途半端なことはできない」と提供する側の責任をいつも感じているとのこと。新しい手法なども積極的に取り入れてきましたと語る一方で「新しい試みには失敗がつきもの。失敗の方が多かったかな」とも。その惜しみない努力が美味しい野菜を生み出すのですね。
「多気のたけのこは美味しいですよ」と語る奥山さん。赤土の土壌が適しており、県内でも有数の産地とのこと。機械を入れることができず、全て手作業。とても手間がかかりますが、お客様の「美味しい」の声を励みに労力を惜しまないそうです。どんな食べ方が好きですかの問いには「味噌和え、天ぷら、炊き込みご飯。それと小ぶりのものは丸焼きが実にうまい」。美味しそうですね。
健康維持に朝の体操を欠かさないそうで、柔軟な身体も披露してくださいました。「身体の動く限り作り続けていきたい」と語る奥山さん。これからもずっと、美味しい農産物を作り続けて頂けるようです。

Photo:奥山 明さん 2019.05

イチゴ栽培に懸ける若き就農者

 2018年7月からイチゴ農家として新規就農した千鳥智昭さん(32)は、元々は津市のご出身。ご実家は農家ではありませんでしたが、生き物に関わる仕事に就きたいと酪農の道へ。24歳の時に観光イチゴ農園へ転職し、イチゴの魅力に惹かれていきます。「農園では、栽培と接客の両方に携わっていました。人と接することも好きだったので、栽培とのバランスが良かったです」と語ります。約8年間勤めながら、次第に自分自身で栽培したいという気持ちが湧いていったそうです。
 自営するにあたり、三重県内のいろいろな地域をあたっていましたが、土地や住居などの情報も多く、JA多気郡との関わりも深い多気町に決めたとのこと。「新規就農誘致にとても熱心な土地柄で、この点はスムーズでした」。準備段階を経てビニールハウスの高設栽培で章姫の栽培を始めます。「章姫は収量のバランスも良く育てやすい。知名度もありブランド力、販売先も安定しています。また、生産者が多いブランドなので栽培情報も得やすいですね」。農園で得た経験が活きているようです。
 「従業員としての立場と自営では全く違う。一人で全てをこなさないと」。8年の経験もあり、自営には自信があったそうですが「まだまだ勉強不足です」と謙虚に語る千鳥さん。イチゴ部会での視察や、新規就農説明会にも改めて参加するなど学習意欲も旺盛で、JA多気郡営農指導員との関わりも大切にされているようです。また、趣味の草野球でケーキ店に勤める仲間から早速出荷の依頼もあったとのことで「やれることはやっておきたい。こういう繋がりも大切ですよね」と頼もしい限りです。
 千鳥さんの出荷するイチゴはJA多気郡へ出荷されスマイルなどで販売されます。甘くて美味しい章姫イチゴをたくさん栽培して欲しいですね。

Photo:千鳥 智昭さん 2019.01

私の使命ホームランスターメロン作り

 皆さんご存知の明和町大淀産ホームランスターメロン、美味しいですよね。このホームランスターメロン作りを約30年続けている鈴木昌男さん(85)は、明和町の大淀地区 施設園芸部会 部会長という立場からも、栽培に懸ける想いはとても強いようです。
今回は、鈴木さんにいろいろとお話を伺いました。

 昭和8年に鈴木さんは農家で生まれ、戦後間もない頃に学校を卒業し、当初はお米作を中心に、自宅で漬けた伊勢たくあんも出荷していたそうです。昭和40年代に入ると、除草剤の普及によって除草作業に向けられていた時間が空くようになり、ハウス栽培も展開プリンスメロン作りを始めたそうです。「除草剤の無い昔は大変だった」と懐かしそうに語ります。
 昭和53年、圃場整備事業により水路などが整備され、鈴木さんを含めた5人で大型ハウスを建設、法人経営にも乗り出します。約10年後の昭和62年、取引先である兵庫の小林種苗からホームランスターメロン栽培を勧められます。これが〝大淀産ホームランスターメロン〞の始まりです。やがて20数名の施設園芸部会にまで発展し、ブランドイメージが定着していったようです。
 「毎年1年生ですよ」と語る大ベテランの鈴木さん。ホームランスターメロン作りのこだわりを聞いた際の意外な回答です。天候、土壌、水加減、肥料など、異なる状況下で考えながら作業に携わっているそうです。「土壌検査をしてもらい、施肥設計をしてもらいます。雨天、曇り、快晴など天候を考慮しながら日々の管理を徹底すること、小さなキズもやがて大きくなるのでツル折れにも気を付けること。そしてようやく綺麗なホームランスターメロンができるのです」とのこと。1年生の意味の奥深さが垣間見えます。
 ホームランスターメロン就農者も高齢化が進み、今では5名ほどに減ってしまったそうです。「昨年30歳代の若い就農者が入ってきてくれた。早く覚えて欲しい」と嬉しそうに
語る鈴木さん。「あと2・3年はできるかな」とも。大淀産ホームランスターメロンを毎年楽しみにしている方がたくさんいらっしゃいます。いつまでもずっと永く作り続けてくださいね。

Photo:鈴木さんご夫妻 2018.06

美味しいネギを作り続ける

 味噌汁やうどん、炒め物など日々食卓に登場する白ネギ。冬の鍋にも欠かせませんよね。ちょっとした薬味から時には料理のメインにもなる食材で、昔から風邪のときにも頼りになるなど存在感抜群の野菜です。今回は美味しい白ネギ作りにこだわる、JA多気白ネギ部会長の山路さんにお話しを伺いました。
【白ネギ作りへ】
 地元の役場職員として勤務していた山路さん(70)。ご両親は農業に携わっており、45歳の時に父親から仕事の継承を依頼されます。「専業として始めたのは定年後からでしたね」。
 56歳の頃、広報誌はばたきに“白ネギを作ってみませんか”という記事が掲載されているのを目にします。当初の説明会などは奥様が出席し、白ネギの単価が安定的なことなどから夫婦で取り組んでみようということになりました。白ネギは排水の良い土地であることが重要で、雨には気を遣います。特に台風の場合は、暴風にも気を遣います。「台風前には必ず土寄せをします。暴風で曲がり、商品価値が下がってしまうのを防ぐためです」。生産者としてのご苦労が垣間見えます。
【試行錯誤の連続】
  「味は良かったのですが、葉が折れやすく湿害にも弱いのが欠点でしたね」。当初栽培していた品種の問題を解消する契機となったのが、JA多気郡白ネギ部会での静岡県視察。ここで味も良く湿害にも強い「龍翔」という品種の存在を知ります。以後、「龍翔」を軸に、毎年のように新品種を試していったそうです。美味しい白ネギを作るためには労を惜しまないという山路さんの想いが伝わってくるようです。
【白ネギを作る使命】
 「西井 正組合長(当時は多気営農センター長)から白ネギ部会を作ろうと持ちかけられたのですよ」と当時を振り返る山路さん。現在は後継者育成活動もされてみえます。
「白ネギは串刺しにして焼き、塩コショウで頂くのが一番甘味を感じますよ」。日本人の食卓に欠かせない白ネギを、後世に脈々と残していく使命。山路さんのチャレンジはこれからも続きます。

Photo:山路 時治さん 2018.01

伊勢茶の生産を継承

 大台町の特産品、伊勢茶。かつては大台茶と呼ばれ、その歴史は古く、室町時代から江戸時代にかけて伊勢商人が日本中に広めたと言われているほか、文禄3年(1594年)に茶を年貢として納められていたという記載もあるほどです。しかし近年は後継者不足等の影響で、生産量も減少傾向にある中、大台町で伊勢茶生産に想いを懸ける遠藤宏明さんと真奈美さんご夫婦にお話しを伺います。
【大阪から移住】
 大阪出身の宏明さんは、実家で伊勢茶を生産している奥様の真奈美さんとの結婚を機に農家になることを決意、移住します。「楽しそうなというか、期待感の方が強かった」と語る宏明さん。笑顔で語るその表情は、生産者の雰囲気そのものです。
【互いに感謝】
幼少の頃から伊勢茶に慣れ親しんでいた真奈美さんは「最後まで手を抜かない探究心の強い性格で、生産者に向いていると感じています。力仕事を率先して代わってくれたりなどの気遣いにも感謝しています」と優しく微笑みながら語ります。
また、宏明さんは「妻は精神的に辛い時などさりげなく気遣ってくれる優しさに感謝ですね」と穏やかに語ります。
【伊勢茶に懸ける】
 真奈美さんのご実家は大台町の大西製茶で、実父の大西英夫さんは生産歴47年のキャリアを持つ伊勢茶のスペシャリスト。数々の表彰実績など、永きに渡り伊勢茶生産に貢献されてきました。その伝統を引き継ぐ宏明さんは「手を掛けた分、良いお茶ができると思います。その時期に対処しなければいけないことをこなしていく大変さがありますね」と宏明さんは語ります。
【豊かさを育む】
 栽培したお茶を揉機で袋詰めにして、自社ブランドでも販売されている遠藤さんご夫婦。「みなさん、美味しいお茶を味わってくださいね」。伊勢茶を育む大台町の豊かな土壌は、この地に住む人たちの心の豊かさをも育んでいるようです。

Photo:遠藤宏明さん・真奈美さん 2017.12

価値ある経験を積み重ね

【夫婦で継承】
多気町で米や麦、白菜などを複合栽培している大西敏彦さん(42)は就農7年目。妻のエリさん(39)と両親の4人で約33haの農地を管理し「前川次郎柿」の出荷が終わる12月まで忙しい日々が続きます。
 敏彦さんは以前、大台町の福祉施設で介護福祉士として15年間勤めていました。エリさんは敏彦さんの働く施設に実習生として訪問し、仕事のことを学んでいくうちに距離を縮め、2002年に結婚されたそうです。両親は昔から農業を営んでおり、もともと定年後は実家で就農しようと心に決めていたとのこと。「手伝いでの農業ではなく、早く就農して父からたくさん農業の事を学びたいという思いが強くなり、前の仕事に区切りをつけた」と語る敏彦さん。夫の決断に最初は不安もあったエリさんでしたが、両親がしっかりした土台を作ってくれていたこと、またひたむきな敏彦さんの熱意に答えたいとの想いが強くなり一緒に農業の道を歩んでいくことを決意されたそうです。
 敏彦さんが就農して米と麦の栽培面積を増やし、新たに大豆と白菜の栽培も拡充。ナバナは敏彦さんとエリさん2人で栽培し、エリさんは収穫と袋詰めをサポートされています。「二人で手の届く範囲の面積で栽培し、質を維持しています」。3年前に法人化し、農地の管理や栽培から出荷までは敏彦さん、エリさんは事務作業などで、敏彦さんをサポート。「家のことや仕事のことも、きちんとしてくれすごく助かっています。妻の存在は心の支えですね」と敏彦さん。エリさんは「規模を大きく広げ、真面目に頑張っている敏彦さんに感謝しています」と語ります。
 敏彦さんは「まだ知識が足りなくて父に頼るところもありますが、父が積み重ねてきた農業の知識を守りながら、よりおいしい農作物を作れるよう努力していきたい」と意気込んでいます。

Photo:大西敏彦さん・エリさん 2017.11

伝統野菜“伊勢いも”を守る

【伊勢いも品評会で金賞受賞】
多気町の三谷嘉夫さん(81)は60余年に渡り栽培に取り組んできた巧の農業者です。平成28年度の伊勢いも品評会で金賞を受賞されるなど、栽培にそそぐ情熱は今も不変です。その管理方法は“土八分”といわれるように、最初の土づくりに細心の注意を払うこと。種いもの植え付け後、芽が出る直前に肥料を施したり、敷きワラと防除シートで覆う作業、良いつるを一本だけ残す芽かき作業、除草作業など全て手作業とのこと。手間を惜しまず大切に育てます。「種芋は親に似るのだよ」と語る三谷さん。栽培では次年度用の種いもを残すのですが、大きさと丸みを重視し、出荷をすれば高値が付く形状の良いものをあえて種いもとして残しているそうです。親子の形状が似るところは人間と同じですね。

【伝統野菜を守る】
300年の歴史を持つ伊勢いも。古くは“山の芋”と呼ばれていました。明治14年に開かれた内国博覧会へ出品され、その名は全国に広まり、明治の終わりにはアメリカへ輸出されるほど重用されました。また、大正・昭和初期には三重県代表として皇室へも献上されていた歴史もありました。
三谷さんが幼少の頃は、多気町津田地区の殆どの農家で米と伊勢いもが栽培されていたそうです。しかし、時代の流れとともに伊勢いも農家は大幅に減ってしまいました。地元の誇り、伝統野菜を残さねばとの思いが、80歳を超えてもなお、栽培し続ける原動力となっているようです。「伊勢いもを若い後継者に繋げたい」と語る三谷さん。自身よりも年長の伊勢いも農家が他に3人もおり、皆同じ気持ちで続けているとのこと。お元気に、いつまでも続けていただきたいと願います。好きな食べ方は?の問いには「とろろが一番だよ」。皆さんはどんな食べ方が好きですか?

Photo:三谷 嘉夫さん 2017.10

伊勢いも 新規就農者の挑戦

【新規就農者として】
 津市美杉町出身の小川忠康さん(42)は、平成27年4月から伊勢いも栽培の道に進んできたばかりの新規就農者です。元々はコンピューター関連の会社員をしていましたが、転職にあたり幼少の頃に家庭で野菜などを作っていた記憶や、屋外での開放的なイメージのある農業を意識し始めたところへ、種苗会社の企画する2泊3日の農業体験ツアーへ参加、「このツアーが就農への決定打となりました」。
とはいえ、全く知識のないところからのスタート。そこで、松阪市にある三重県農業大学校へ入校、1年間野菜栽培の基礎知識を学びます。同時に卒業後の就農先を探していたところ、多気町が新規就農者への募集を熱心に行っていることを知り、そこで初めて伊勢いもと出会います。「実は伊勢いものことをあまり良く知りませんでした」と語る小川さん。地元でしか栽培できない歴史ある伝統野菜なので「だから多気町さんが熱心なんだ」と知ったといいます。「研修先の農家さんを始め、たくさんの方々に教えていただき本当に感謝しています。当初不安視していた両親も今は応援してくれています。周囲の期待に応えられるようこれからも頑張っていきたい」と一言ずつ、噛みしめながら語ります。

【JA多気郡も連携】
地元の誇る伝統野菜のため、前出の多気町を始めJA多気郡も栽培方法などの研究に関わっています。また、三重大学や相可高校生産経済科、三重県も各々の立場で連携しながら研究などを行なっています。こうした連携や取り組みは、小川さんたちの存在があってこそではないでしょうか。

Photo:小川 忠康さん 2017.10

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新規就農への挑戦

新規就農への挑戦明和町在住の濱口仁志さん(36)は、就農2年目の若き担い手。ご家族の協力の下、季節野菜を中心として栽培してみえます。元々はイタリアンのコックとして勤務。素材を活かした美味しい料理を作ることよりも、素材そのものを作ってみたいと新規就農を思い立ったとのこと。当初は明和町役場へ出向きアドバイスを受けていましたが、その後、明和町商工会で知り合った新規就農者の知人たちと一緒に大型ハウスを借り受けます。いざ栽培となったところで指導を受けるべく明和営農センターへ駆け込み、現在では師と仰ぐ浦田営農指導員と出会います。「農家に生まれ育ったわけではなかったので、農業用語の意味も全くわかりませんでした」と笑顔で語る濱口さん。「今でも日々勉強です」。

【コックとしての経験が】
 ある日、農産物直売所へ収穫した野菜を卸しに行った際、買い物客から質問を投げかけられたことがあったそうです。「これはどうやって調理して食べたらいいの」。
 この問い掛けには、元コックとしての〝おもてなしの心〞に火が付いたそうです。「調理法を聞かれると思わず高揚しますね。つい、熱く語ってしまいます」と嬉しそうに語る濱口さん。そして「当初は家族や友人から、農業を始めるって本当か?とかなり驚かれました。父からは一生の仕事としての覚悟を問われましたが、いまでは心から応援してくれています」と語る表情からは就農者としての自信も垣間見えます。

【感謝の心を大切に】
自らを〝バジリスト〞と称する濱口さん。コック時代から、バジルの香りが大のお気に入りだったとのこと。収穫直前のバジル畑で作業しながら「ここへ来ると独特の香りに癒されます」。そして、深く息を吐き出した後に「いま、こうして就農できているのも新規就農者の仲間や、ハウス周辺の農家さんほか、関わっていただいたすべての皆様のおかげです。期待に応えられるよう今後も農業を突き詰めていきたい」と語る濱口さん。ここ多気郡管内でも、地域を支える若き就農者が動き始めています。

Photo:濱口 仁志さん 2017.09

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技術とともに感謝の心を継承したい

【イチゴ栽培の道へ】
明和町でイチゴ栽培と水稲を営んでいる山口剛司さん(58)は、農業歴29年。三重県から指導農業士に認定され、就農セミナーでアドバイザーを務めるなど次世代育成にも熱心に取り組んでみえます。
山口さんはサラリーマンとして働いていた25歳の時、父親の他界を機に名古屋から母親の住む故郷へ帰ることを決めました。3年程漁師などをしていましたが、元々実家が田を所有していたこともあり農業に転身。当時の営農指導員(現JA多気郡 西井正常務)からイチゴ栽培の誘いを受けて説明会へ参加し、地味で根気の要る栽培であること、痛みやすいため海外からの輸入は難しい等の性質から「手間がかかるほど収益性が高い」と判断、イチゴ栽培を決意したことが後の進路を決定付け、「この選択で間違いなかった」と語っています。

【感謝の心を忘れない】
山口さんは「今の自分があるのは、母親や妻を始め周囲の人たちのおかげ」と感謝の意口にされます。同期に海苔養殖からイチゴ栽培へ転身し、隣同士の場所で競い合うように始めた当時55歳の山中芳夫さんの存在も大きかったそうで「農家としては大先輩。とても熱心な方で良きライバルに出会えたことに今でも感謝」と山口さんは当時を回顧されます。高齢でイチゴ栽培を辞めた山中さんから15年前、かつて競い合った隣の場所を譲り受け、ここに自身の高齢化も想定し作業の楽なイチゴの高設栽培も12年前から始めました。
 
【次世代へ繋ぐ】
次世代育成のため、指導農業士として地元明和町在住の吉田裕俊さん(28)を農業研修生として招き入れました。吉田さんは「技術的なことはもちろん、多くのことを吸収したい」と元気に話します。山口さんは「どんどん吸収してライバルになれ」と語りながらも、優しく見守る表情は、まるで自身と山中さんとの関係と懐古しているようです。


Photo:山口 剛司さん(右)と吉田 裕俊さん(左) 2015.11

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遊休地でどじょう養殖 大台町下真手 どじょうの会  

【遊休地を活用】
大台町下真手で遊休地を活用し、どじょうの飼育を始めたグループがいます。名付けて「どじょうの会」。山本さんを代表とするメンバーの6人は、仲の良い仲間です。きっかけは下真手にあるお寺「養国寺」所有の田んぼを管理する檀家さんが高齢で作業ができなくなり、遊休地になってしまったことから。すぐそばには墓地があり、人通りも多いことから、山本さんたちはなんとか活用することができないものかと考え、ナバナを植えようということになり、栽培を試みました。平成25年のことです。しかし、あともう少しで収穫というところで全て鹿に食べられてしまい、ナバナの栽培は失敗に終わってしまいました。

【どじょうの会が発足】
さてどうしたものか。山本さんたちは皆で意見を持ち寄りながら、何度も話し合いました。そしてこの地は宮川のきれいな水が豊富にあることから、どじょうを飼ってみようということになり、昨年、遊休地である13アールの田んぼを池にする造成に取り掛かりました。池の周りには芝生を植えるなど、どじょうが逃げ出しても傷がつかないよう工夫しました。そして7月に岐阜県の業者を視察。まず554匹のどじょうを購入し、飼育場へ放流しました。

【どじょうで町おこし】
田んぼの造成、どじょうの購入には町の地域活性化支援事業補助金を活用しました。現在では稚魚も繁殖し、数千匹になっています。秋には、ふるさとプラザもみじ館でどじょうを調理してもらい試食会をしました。
「どじょうは骨も柔らかく調理がしやすい。味はとてもあっさりしていて、から揚げや蒲焼、どじょう鍋にすると癖もなくとてもおいしい。実はうなぎより栄養が高く、精力剤にもなるのですよ」と代表の山本さんは話します。
「大台町に行けばおいしいどじょうが食べられるというイメージにまで持っていければ良いかな」と語る熱きメンバーたち。1~2年後までには販路を広げ、コンスタントに安定供給ができるよう、料理方法を策定しながら考えていきたいと計画を立てています。

どじょうの会
代表:山本松生さん 山本 保さん 尾上 薫さん 門野清一郎さん 山本啓子さん 門野筆子さん)

Photo:左から門野清一郎さん、山本松生さん、尾上薫さん、山本保さん 2015.09

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次郎柿のおいしさをいつまでも

【次郎柿生産に携わる】
多気町の小野健一さんは高校を卒業後、三重大学農業別科(当時)で農業を専門に学び、永年に渡り果樹生育の指導者として生産者をサポートしてきました。その後、指導者としての道をリタイアし、自ら次郎柿などの果樹栽培に携わる傍らJA多気郡柿部会長として活動するなど、多忙な日々を送られてきました。

【柿部会の取り組み】
次郎柿の中でも早熟品種の早生次郎柿は多気町が発祥。広域で生産されている富有柿に負けない“シャキシャキした歯ごたえと糖度の高い甘味”が特徴です。地元での根強い人気に支えられた出荷を中心に、名古屋、大阪など都市部での販売実績も積み上げてきました。最近では、三重県の支援を受けながら、東南アジアのタイ王国への輸出も展開されているとのこと。「多気郡産の早生次郎柿はタイの人たちの味覚に合っているようです」と語る小野さん。昨年来日されたタイの百貨店バイヤーから、かなり手ごたえを感じたようです。

【生産者の努め】
小野さんは「次郎柿など果樹は嗜好品。調理して食べるものではないので、その味覚はストレートに伝わります。美味しい柿を生産、収穫しないと」と語る一方、「産地として、量を採っていき続けることが大事」と噛みしめるように語ってくれました。基本となる生産技術があって初めて、高級品化や高付加価値化といった取り組みができるとのこと。これからも柿部会長として、また生産者として、多気郡産早生次郎柿を“これからも永く生産し続けること”や“高い付加価値を付けるため”に活躍の場を拡げていくことでしょう。

Photo:小野 健一さん(左)とタイ王国の百貨店バイヤー(右) 2015.08

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年間を通じて子どもたちに稲作を教える

【相可小学校サポート隊田ん田ん
(でんでん)クラブを結成】
多気町兄国の扇田榮夫さんは40年間農林水産省三重食糧事務所に勤務され、長年農業分野に関わり約12年前に退職しました。
その後も地元の農業振興に対する思いは強く、相可小学校の先生から、子どもたちに米の栽培について教えてほしいとの依頼を契機に地域の女性たちと「相可小学校サポート隊田ん田んクラブ」を結成されました。


【授業の内容】
毎年、3年生に対して稲の1年間であるもみの塩水選から、しめ縄作りまでを教えています。3月には授業のお礼にと田ん田んクラブのメンバーが小学校に招待され、子どもたちから歌や笛など演奏を、扇田榮夫さんからは昔の遊びを教えたり、農具を披露するなど交流を深めています。また3年生以外にも、4年生にはタケノコ堀り、1年生には緑のカーテン作りでキュウリやゴーヤーの苗植えを、保育園児にはもみ殻を集めて、昔ながらの薫炭で焼き芋作りを実演しています。
【子どもたちの成長が楽しみ】
「4月から3月までの1年間で子どもたちの成長を肌で感じ取ることができとても嬉しい。
収穫後はどれもおいしく食べ、野菜が嫌いな子どももおいしいと言って食べてくれるようになります。自分たちが作った米や野菜など、自然の恵みに感謝しながら食べることで農業の大切さを知ってもらいたいですし、この地方から食料自給率を拡大していきたいですね」と語る扇田さん。熱い気持ちは子どもたちにもしっかり伝わっているようです。

Photo:扇田 榮夫さん 2015.03

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第44回日本農業賞三重県代表に農事組合法人丹生営農組合が受賞

【日本農業賞三重県代表】
多気町の農事組合法人丹生営農組合が第44回日本農業賞三重県代表を受賞しました。同賞は日本農業の確立を目指して意欲的な活動を行い、地域社会の発展等に貢献している団体などを表彰し、NHKやJAグループの媒体を通じて地域住民への理解と国際競争力のある農業の実現を目指しており、年1回、各都道府県から代表が選出されるものです。
【丹生営農組合を設立】
丹生営農組合のある同地区の水田地帯では、昭和50年頃から主にタバコや秋冬野菜体系による転作が取り組まれていましたが、昭和62年から実施された県営ほ場整備事業が契機となって、平成2年に丹生農用地利用組合(当時)が設立されました。当初は同地区内の2戸の担い手による小麦の集団転作から開始しましたが、後に水稲作業にも展開、組合を介して地区内の担い手に全作業を委託する利用調整も始まりました。平成16年には約100戸による大豆生産組合を設立。平成18年、2戸の農業者による小麦生産と大豆生産を一本化した特定農業団体「丹生営農組合」が設立されました。法人化を目指す際にJAグループの指導も受けやすい「農地組合法人が最も良いと判断しました」と語る同組代表理事組合長の中村豊實さん。これには地域の人たち全員の同意が必要でかなり時間を要しましたが「やはりこの集落には一番適している」と当時を振り返ります。
【積極的な地域との関わり】
地域との関わりも積極的に行われています。地元の自治会や保育園・小中学校、老人会や青少年育成町民の会などの環境教育活動を始め、図書館を通じた社会教育活動などその関わりは多岐に渡ります。中でも農業法人せいわの里をはじめとする組合生産に関わる連携は、中軸的な活動となっています。せいわの里が運営する「まめや」は、農村料理を中心に提供されている施設で豆腐やみそといった大豆加工が行われており、学校給食にも使用されています。その消費量に対応するため、大豆コンバインを導入することで作業性を高めニーズに応えています。また、地域活性化施設である「ふれあいの館」を運営する地元企業の川原製茶との新商品開発なども行われています。その他、新たな取り組みとしてしょうが栽培を展開、付加価値の高い「金時生姜」を生産・独自加工をすることにより、高い収益性とブランド化を図っています。この金時生姜は伊勢の老舗菓子店へ出荷されるほか、佃煮などのオリジナル加工品としても展開しています。
【後継者を育てたい】
「多気で活躍する後継者を育てたい」。平成26年に若手職員を採用したほか、今年は農業研修生の受け入れも予定されています。丹生地区はかつて伊勢街道の宿場町として栄え、丹生大師の参拝客で賑わうなど歴史の趣が深い町。この静かな山間の町に、いにしえの賑わいを取り戻すような活気を、集落みんなが期待しているようです。

Photo:中村豊實代表理事組合長(前列左から2番目)と職員のみなさん 2015.02

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地域活性化のネットワークづくりを目指して

 JA多気郡青壮年部は創設から永きに渡りさまざまな活動を継続してきましたが、現在では20数名の部員で構成、制約された活動内容となっていました。この自然環境に恵まれた多気町で3代目として農業を営む中井正法さんは、平成25年末に同青壮年部に所属すると同時に部長を任されることに。
「突然部長になってしまって」。周囲は先輩ばかりでリーダーシップを発揮しているわけでもないと謙遜しますが、誰にでも好かれる前向きな性格に先輩たちが期待したようです。今では部員たちと一緒に同郡内生産者の視察に回るなど精力的に活動を実施、新たなネットワークづくりに動き出しています。
中井さんは農業系高校で学んだ後に後継者として家業入り。そして4年が経過しました。当初3年間は祖父や父、親戚の方々などに指導を受けていましたが、青壮年部に加わってからは家族以外の学ぶべき先輩や手法などが一気に増え、大いに刺激を受けるといいます。「青壮年部に加わることでのネットワークは、自身の生産にも寄与するところが非常に多い。この恩恵を同じ地域の若い世代と一緒に分かち合っていきたい」と語る一方で、後継者不足に悩むこの地方の現状を肌で感じ憂慮しています。
一昨年他界した祖父の口癖は「必ずみかんの時代がやってくる」。この言葉を胸に刻みながら、青壮年部長として、そして父と共に継承していく農業を「楽しみたい」と語る姿は何とも頼もしい限りです。

Photo:中井さん親子(写真左から)法夫さん(57歳)、正法さん(24歳/JA多気郡青壮年部部長) 2015.01

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最高の松阪牛を提供したい

 平成26年11月23日(日)、松阪農業公園ベルファームに於いて第65回松阪牛共進会が開催され、全50頭の出品牛の中から、大台町熊内で畜産を営む岡本有喜さん、憲治さん親子の肥育する「こすもす号」が見事四席を受賞されました。子どもの頃から松阪牛を身近に感じながら育った憲治さん、農業系専門機関で畜産知識を学んだ後に家業を継ぐべく仕事を始めました。後継者不足、そして大手企業の参入など、畜産を取り巻く環境は厳しさを増しています。先代から続くこの仕事を継続し生活の糧としていくという自負の下、松阪牛を肥育する若手畜産家としてこの地方の、この業界を牽引し、最高の松阪牛を提供していくという決意が感じられました。

Photo:岡本 憲治さん 28歳 2014.12

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第30回三重県産業功労者表彰を受賞

 平成26年11月14日、三重県内の産業振興に寄与した功績をたたえる産業功労者表彰(農林水産業部門)に、元県農村女性アドバイザーネットワーク代表世話人の大西よしさんが選ばれました。同賞は事業活動等を通じて、農産物の市場開拓や雇用拡大などの産業振興に貢献した人に対して贈られており、昭和60年から毎年実施されています。
 大西さんは永年に渡り、県の農村女性アドバイザーとして後継者育成活動に尽力されてきました。また、明和町で初の女性農業委員を努めるなど農村における男女共同参画を推進、女性の雇用拡大にも力を注がれてきました。花と野菜の直売所「サン」を開設し、生産者に売り場を無償で提供するほか、あられや餅、味噌等の農産加工物の生産により高齢者の雇用を生むなど、その活躍は多くの人たちに支持されてきました
 元々は水稲を中心に麦、大豆栽培を生業とする家内農業でしたが、JA多気郡の西井正常務理事にアドバイザーへと導かれたこと、また隣接する松阪市で女性農業家として活動する青木みつ子さんとの出会いから農業に対する想いが一気に開化、その活動に情熱を注ぐことに。「一般企業でも女性の活躍の場が拡がってきています。農業の分野でも女性が活躍することで、もっと農村地域は活性化するはず」と、その信念は揺るぎないようです。
 「食の大切さを次世代へ繋げなければ」。その熱意は小学校にも拡がっていきました。食育にも注力し農業体験を指導、児童と一緒になって汗を流し野菜を収獲します。子どもたちからお礼の絵や手紙が届くと「とてもうれしくて。将来、農業に魅せられた若者がこの地域で活躍してくれたらいいかな」と、キラキラ輝く瞳で語る大西さん。農業に対する熱い想いはまだまだこれからも続くようです。

Photo:大西よしさん(後方一番左)と「サン」のみなさん 2014.11

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年中味覚狩りができる農園が夢

 多気町の観光施設「ふるさと村動物園」の近郊に、河合さん親子のイチゴハウスがあります。イチゴ狩りのシーズンには多い日で500人の観光客が訪れます。
 河合家は、敏之さん、重人さん、良太さんの親子3代で水稲4㌶、ミカン100㌃、イチゴ45㌃、ブルーベリー25㌃を栽培しています。代々ミカン農家でしたが、重人さんは収穫体験型のビジネスモデルに転換することを決意、18年前にイチゴ狩りができるハウスを立ち上げました。
 「当初2年間ほどはお客が来なくて。熟しすぎたイチゴを出荷するわけにもいかず、とても悔しかった」と語る重人さんは、行商で売り歩いたことも。
 転機は3年目で訪れました。新聞掲載を機に名古屋方面から問い合わせが殺到、お断りするほどの予約の電話が鳴り響いたのです。
 この人気は一過性では終わりませんでした。他の園などを視察して顧客満足を探求した結果、上級ランクのイチゴを含めて、出荷に振り分けることなく来場客用として用意したことで、多くのリピーターが訪れたのです。
 良太さんが新規に取り組んでいるブルーベリー園はイチゴのオフシーズンを考慮し、親たちが温かく見守る中、2年後のオープンを目指しています。
 理想は、年中味覚狩りのできる四季を通したおもてなし。「今後は、キノコ狩りも始めていきたい。取り組みたい生産者には、ノウハウなどを教え、一緒に盛り上げていきたい」と語る敏之さん。
 重人さんは「栽培面積が充分あり、きちんと生計が立てられるなら後継者問題は解決できる。家族だけでなく地域の農家と協力して多気町に多くの観光客を呼び込みたい」と語ってくれました。

Photo:河合さんご一家
    (写真左から)敏之さん(84歳)、重人さん(57歳)、良太さん(27歳) 2014.10

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遊休地利用でトマト JA支援で絆固く

中井憲次さん、釜谷政佑さん、中西貞文さん、三谷定美さんの4人は気心の知れた幼なじみ。今でも竹馬で遊んだ頃が懐かしく、一緒にいると昨日の事のようだと無邪気に語ってくれます。「66歳、67歳となった今でも、何でも言い合えるのですよ」と話す仲良し4人組は、四疋田トマト部会員でもあります。
農事組合法人四疋田営農組合代表理事をしている三谷さんは、JA多気郡多気営農センターの営農指導員から昨年、「農家が高齢化し、畑や田んぼに草が生え遊休地が多くなることから、この遊休地を利用し、加工トマトの栽培をしてみませんか」と生産農家の募集依頼を受けました。ちょうどその頃、中井さん、釜谷さんが会社を定年退職、中西さんも自営業。それぞれ立場は違えど4人とも何かを始めたいと考えているところでした。「良いタイミングじゃないか。じゃぁ、やっていこうか」ということになり、名前を四疋田トマト部会と名づけ、今年から愛知県の会社との契約栽培で、加工トマトの栽培を始めました。
「私たちは利益を目的とはしておらず自分の健康とボランティアでしています。肥料の施し方、農薬の使い方、鍬の使い方、土のかけ方など最初はわからないことばかりで苦労し、全てJAさんに指導してもらっています。」とみなさんは言います。「朝起きたらすぐ畑に行って成長を確認します。毎日育っていくのを見るのがとても楽しみです。これから害虫や病気などいろいろあると思いますが、課題を克服し学習していきたい。目標は5トンです。来年は面積をもっと増やし、定年退職して家にいる人にも参加してもらい、トマトを通じて地域のきずな作りの場を作っていきたい」と代表の中井さんは意気込みを語ってくれました。

Photo:四疋田トマト部会のみなさん
    (写真左から)三谷定美さん66歳/中西貞文さん67歳/中井憲次さん67歳/釜谷政佑さん67歳 2014.09

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